今の日本社会に生きていると、「ルールをしっかり守って行動する」ことが
とても重視されるスキルだと感じることが多々あります。
もちろん、ルールは大切です。
みんなが心地よく、そして安心して過ごすための「共通言語」のようなものです。
ルールがあるからこそ守られる安全ももちろんあります。
ただ、支援の現場に身を置いていると、ふと思うことがあります。

「そのルール、今のこの子たちの状態に合っているのかな?」
ときにはルールそのものが、誰かにとっての大きな「負担」や「壁」になってしまっている。
そんなとき、私たち支援者に求められるのは、ただルールを守らせることではなく
その負担を和らげるための「柔軟な対応」ではないかと思います。
「インクルーシブ(多様な背景を持つ人が、排除されずに共に生きること)」や
「ニューロダイバーシティ(脳や神経の多様性。発達障害などを『欠陥』ではなく『人類の多様な特性』と捉える考え方)」
これらの考え方を社会に広めていくためには
子どもたちのうちから「なぜそのルールがあるのか」という目的を考え
必要に応じて「ルールは自分たちで作り変えていけるものなんだ」と実感する練習が必要だと思っています。
お遊戯会、全員が舞台に立たなくてもいい。
例えば、幼稚園のお遊戯会。
「おむすびころりん」の劇をするとしましょう。
多くの園では「全員が舞台に立って、全員にセリフがある」形を目指しますよね。
でも、そもそも「なぜお遊戯会をするのか」という目的を深く掘り下げてみると、どうでしょうか。
お遊戯会の大きな目的は、子どもたちが「自分を表現する喜びを知ること」や「仲間と一つのものを作り上げる達成感を味わうこと」にあるはずです。
そう考えると、人前に立つのがどうしても苦しい子に無理をさせて、「劇が嫌い」「行事が怖い」という記憶を残してしまうのは、本末転倒かもしれません。
舞台に立つのがしんどければ、照明係、道具の片付け係、小道具の準備係、あるいは保護者への招待状を作る係……。
その子の得意や特性に合わせた「参加の形」は、いくらでも作ることができます。
「みんなと同じように舞台に立つ」という既存のルール(当たり前)を、目的(子どもの成長)に合わせて作り変えてみる。それだけで、その子にとってお遊戯会は「自分の役割がある、安心できる場所」に変わります。
もちろん、これを実現するには、現場のノウハウや人の配置、環境を整える「構造化」の知識がセットで必要になりますが、まずは「考え方のアップデート」が最初の一歩になります。
「前例」よりも、目の前の「その子」を見つめる。
ルールを作り変えるということは、言い換えれば「今ある当たり前を疑ってみる」ということ。
以前、書字(字を書くこと)に困難を抱える中学1年生の男の子がいました。
板書をノートに写すことが彼にとっては非常に大きな負担。そこで、「黒板をタブレットのカメラで撮る」というサポートができないか、学校に相談したんです。
最初は、「前例がない」「他の子もやりたがったらどうするんだ」「一人だけ特別扱いはできない」という反応でした。
でも、校長先生や教頭先生と何度も対話を重ねました。
結果として、タブレットの使用が認められたのですが、面白いことに、彼がタブレットを使っているからといって他の子が真似をして騒ぎ出すことはありませんでした。
周りのクラスメイトたちは「彼にはそれが必要なんだ」と自然に理解してくれたそうです。
「みんな同じ」ではなく「それぞれに合ったサポート」がある。
それを子どもたちが肌で感じる機会こそが、多様性を受け入れる一番の学びになるのではないでしょうか。
最後に
社会には、本当にさまざまな人がいます。
子どもの力を伸ばすサポートをしながら、その子が感じる困難さには、そっと、でも確実に手を差し伸べる。
「これが普通だから」という言葉で誰かを枠にはめるのではなく、その子に合わせたサポートのあり方をみんなで考え、ルールを更新していく。
そんな「全ての人が生きやすい社会に」を、子どもたちと一緒に作っていけたらいいなと思っています。
皆さんは、身近な「当たり前」について、どう思われますか?





