黒板の文字をノートに書き写すのが、どうしてもしんどい子がいました。
専門機関を受診すると、書字にしんどさがあることが分かり、「黒板の情報はタブレットで撮影する」という配慮を勧められました。
いざそれを学級で実践しようとしたとき、学校側からこんな心配の声が上がりました。

「あの子だけズルい」「私もやりたい」
となってしまうのではないか
現場に立っていると、こういう場面によく出会います。
今回は、この”あの子だけ”がなぜ生まれてしまうのか、そして、その「ずるい」をどうすれば「あの子には必要」だと思えるようになるのか。
基礎的環境整備と合理的配慮について、皆さんと一緒に考えたいなと思います。
この記事では小学校をイメージして書いていますが、基礎的環境整備・合理的配慮は全ての場において大切な考え方だと思います。学校でも、職場でも、家庭でも、これらの考え方の土台作りができるといいのではないかなと思います。
基礎的環境整備・合理的配慮ってそもそも何?
まず言葉を整理しましょう。
基礎的環境整備とは
みんなのためにあらかじめ整えておく土台のようなものです。
教室の掲示物を減らして刺激を抑える、教室内にイヤーマフを用意しておく、といった全て子どもに対しての準備がこれにあたります。
合理的配慮とは
その土台の上で、一人ひとりの状態に合わせて行う個別の工夫のことです。さきほどのタブレット撮影は、まさにこの合理的配慮にあたります。
この2つをセットとして、子どもたちの育ちの環境を考えるということが大切だと思いますが、現場では「配慮を提供する」というだけで、いろいろな戸惑いが生まれます。
現場でよく聞く、配慮への2つの本音
支援職の先生や教職の先生と話していると、こんな声をよく聞きます。
- 一度イヤーマフを使い始めると、それを外すことに強い抵抗が出てしまい、使わない方向に持っていきづらい
- 配慮そのものが、その子の「甘え」になってしまうのではないか
どちらも、悪意から出てくる言葉ではありません。
むしろ、その子のこれからを真剣に考えているからこそ出てくる本音だなと感じます。
でも、この2つの声には、実は共通する誤解があるんじゃないかなと思っています。
それは、配慮を「一度与えたら固定されるもの」として捉えてしまっているということです。
大前提として、配慮を受けることは子どもの権利です
ここで一つ、はっきりさせておきたいことがあります。
必要な配慮を受けることは、その子の権利です。「わがまま」でも「特別扱い」でもありません。
よくたとえに使われるのが、めがねの話です。目が見えにくい人がめがねをかけるのは、甘えでもずるさでもなく、当たり前の調整です。誰もそれを「あの人だけメガネをかけてずるい」とは言いません。
黒板をタブレットで撮影することも、イヤーマフをつけることも、本質的には同じです。その子にとって必要な「めがね」なんです。
権利として配慮を受け止めたとき、周りにできる実務的な工夫もあります。
「あの子だけ」と受け取られやすいのは、多くの場合、その配慮がその子だけの特別な出来事として、唐突に教室に現れてしまうからです。タブレット撮影や着席位置の工夫など、実は誰にとっても使える可能性がある配慮は、基礎的環境整備として学級全体にあらかじめ用意しておく。その上で、その子には今それが必要だから使っている、という説明を日頃からしておく。この2段構えがあると、「ずるい」ではなく「そういう仕組みなんだ」という理解に近づきやすいなと感じます。
配慮は、その子に合わせて「調整」していくもの
めがねの度数が、成長や視力の変化に合わせて変わっていくように、配慮も、その子の育ちや状況に応じて、内容が変わっていくのが自然な姿です。
タブレット撮影が要らなくなる日が来るかもしれないし、逆に別の場面で新しい配慮が必要になるかもしれない。
どちらも「調整」であって、「善か悪か」「普通か普通でないか」で決めるものではありません。
自分の力を発揮できる環境を用意して、好きなことや得意なことに集中できる時間を作ってあげる。
そうすると、その子が「今、何にどれだけ困っていて、何は自分でできるのか」が、周りにも本人にも見えやすくなってきます。イヤーマフや甘えへの懸念の多くは、この解像度が上がっていくことで、少しずつほどけていくものかなと思っています。大事なのは配慮を減らすことそのものではなく、その子に今どんな調整が必要かを、その子と一緒に見極め続けることなんだと思います。
なぜ「必要性」の理解は深まりにくいのか
ここまで、配慮は固定のものではなく調整し続けるものだという話をしてきました。
ただ、そもそもこの「調整し続ける」という発想自体、現場にどう根づかせていけばいいのかという、もう一つの問いが残ります。
基礎的環境整備の大切さは、頭では分かっていても、「なぜそれが必要なのか」という理解が現場に根づくのはなかなか難しいものです。



今の社会では、「その場の環境に個人が合わせる」という考えがまだまだ根強いのかなと感じています。
社会モデルの考え方を広めていくためには、やはりその人それぞれの特性や困難さへの理解を深めていくことが必要です。
実際の環境整備を目にすることで理解が深まるのか、理解が先にあるから環境整備が進むのか。
正直なところ、卵が先か鶏が先かのようで、はっきりとは分かりません。
理解を”待つ”のではなく、育てるという発想
ただ、一つだけ言えそうなことがあります。
配慮の内容を「その子に合わせて調整し続けるもの」だと捉えるなら、その調整の主役は、周りの大人ではなく、子ども自身であるはずです。
自分にはどんな配慮が必要か、今はどのくらい必要か。
それを自分の言葉などで伝えられる力を、幼児期から学童期のうちに育てていくこと。
これがセルフアドボカシー(自分に必要なことを、自分で理解し、自分の言葉などで伝えていく力)と呼ばれるものです。
これは、そんなに大げさなことでなくてもいいんです。「今日はタブレットを使う?使わない?」と本人に聞いてみる。「タブレット使ってみてどうだった?」と振り返りの中で聞いてみる。そうした日々の小さなやり取りの積み重ねが、自分の状態を自分で表現する力につながっていくかなと思います。
もちろん、子どもが権利を主張したとき、周りとの間に「摩擦」や「溝」が生まれることもあります。
最初に紹介したタブレットの場面のように「なんであの子だけ」が生まれることは自然なことです。
そのときに大切なのは、どちらかが我慢して終わらせることではなく、対話を通じてお互いが納得できるラインまで歩み寄るスキルだと思います。
このすり合わせる力そのものを、子どものうちから育てていく。
理解を待つのではなく、理解を一緒につくっていくという発想です。
- 基礎的環境整備はみんなのための土台、合理的配慮は一人ひとりへの個別の工夫
- 配慮を受けることは子どもの権利であり、甘えではない
- 配慮は「外す」ものではなく、その子に合わせて「調整」し続けるもの
- 環境整備への理解が先か、環境整備の経験が先かは、言い切れない
- 理解を待つだけでなく、子ども自身が声を上げ、周りとすり合わせていく力を、幼児期から育てていくことも一つの道ではないか
まとめ
環境整備への理解が先か、実際の環境整備が先か。
皆さんの現場では、どちらが実感としてしっくりきますか。
次期の教育指導要領の改訂ではこの基礎的環境整備が総則等で明記される方針です。
大きな方針が決まっても、それを実践するのは現場の先生方です。
しかし、それを現場の先生方に丸投げするのではなく、福祉の側からも「一緒に理解を深めていく」と言う視点で共に取り組んでいくことが重要なのかなと思います。
ぜひ、ご自身の現場に置き換えて考えてみていただけたら嬉しいです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました!




